
キングダムの主人公「信」
______そして「嬴政」
「秦国」
その名は_
万里に轟く。
今回は戦国七雄「秦」についての歴史と考察です。

成り立ち
馬飼いであった非子という人物が功績を挙げ、周王朝の孝王から
“嬴”という姓と秦の地に領土に貰ったのが始まりとされる。
秦は西方の最果ての地にある為、蛮族扱いされた事も…😢
名君と名臣の時代
そんな秦国を飛躍させた立役者は第七代秦王穆公。百里奚などの人材を重用して、秦よりさらに西の西戎を討伐して、領土を大きく広げ当時の大国“晋”に匹敵する程になった。
(中国の国名“しん“多すぎ)
その後も法家の商鞅、兵法家の樗里疾などを用いて秦をより強固な物にした。
戦国の覇者
西帝
かつて、蛮族と揶揄された秦という国は紛れもなく戦国七雄で頭一つ抜けた存在になっていた。
兵馬の数は他の国より多く、国土においても楚に匹敵。そして斉と並び、西帝と名乗る程になった。
だが、対抗馬であった斉が燕の楽毅によりボコボコにされ、一強時代に突入。そして秦には二人の名将が誕生した。
白起と王翦
キングダムにおいても、絶大な存在感を誇る白起将軍と王翦将軍。
そう、この二人は春秋戦国時代でも五本指に間違いなく入る名将なのである。
- 白起
史実 キングダム
まず、白起将軍の説明から入ろう!
白起は昭襄王(嬴政のひいおじーちゃん)の時代に活躍した将軍で、その戦績は見る物を唖然とさせる。
韓・韓との戦いで敵兵24万の首を取り、魏を幾たびも攻め、城60以上を陥落させる。その後楚を攻め、首都を落とす。魏・趙・韓との戦いでは13万を斬首。韓を攻め5万を斬首。
(ここに書いてあるのでも、全部ではない)
そして趙との長平の戦い。
名将趙奢の息子で兵法の天才趙活を破り、敵兵40万を打ち破る(生き埋めと戦死)
もう、ね、
強すぎない。
余りの強さに身内にすらドン引き、恐られた 白起将軍。最期は讒言によって自ら命を経つ。
その最期は、長平____そして今迄の戦いを悔やんでいるような物であったという。
- 王翦
史実の王翦 キングダム
お次は王翦将軍!
対趙においての指揮を任され大軍を擁して侵攻。桓騎、楊端和と共に難攻不落の鄴を落とす。
だが、鄴陥落の後に趙には名将李牧が起用され、趙を見事に守り、秦を撃退するに至る。
攻めあぐねた王翦は讒言を用いて李牧を処刑 李牧の死後 僅か3ヶ月で趙は滅ぶ。
その後王翦は燕、代などを攻め戦果を挙げる。
そして、愈々秦にとって最大の敵である「楚」と戦うことを決めた秦王嬴政。
嬴政は先ず王翦に尋ねた
「楚を討ち滅ぼすのに兵は何万必要か」
王翦は答えた
60万は必要です
辺りはざわついた 60万と言えば秦の兵力の殆どであった。
そこへ、李信が横槍を入れる
「ヘッ 王翦将軍!ビビってんのか?! 政❗️ 俺に任せろ、俺なら20万で楚を倒せる❗️」
政は王翦より血気盛んな李信を信じ、兵を与え楚の攻略を命じる。
_____________
李信は楚の将軍「項燕」に大敗する。
七人の武将を失う、大惨敗であった。
不思議なのが、こんな大失態を犯した李信は何のお咎めも受けずに、この後も普通に出てくる。本来であれば処断されてもおかしくないはずが
こういった“謎”が「信と嬴政の間に友情関係があったのでは?」という説がある。此れがキングダムのモチーフなのでは。
_話を王翦に戻そう。
李信が敗れた後、矢張り王翦将軍しかいないと言うことで王翦は蒙武と共に楚を攻め、項燕と昌平君を打ち破り、楚は滅亡した。
王翦の息子王賁が燕を攻め滅ぼし、その翌年に李信・蒙恬・王賁の三人が斉を攻め、斉は降伏。(この三人の連合軍は結構熱い展開になりそう)
こうして天下は秦に統一された。
秦の始皇帝
史実 キングダム
初めて天下を統一した王様 嬴政
決して楽な道では無かった。時には恨まれ、時には苛まされ、時には涙した事もあった。
だがそんな嬴政は自らを信じ、勝ち取ったのである。
天下を
光と影
最早中華において嬴政以上の権力を持つ男は何処にもいなかった。
嬴政は天下を統一した後、自らは五帝より上であるとして“秦皇”と名乗る。(チンである)
政治においては礼や徳によった統治ではなく自らが感銘を受けた法家及び”法”による法治主義を徹底させる。
法の元には王も貧民も関係なく、同様に裁かれる。法の上に立つのは始皇帝ただ一人
その法は…余りにも厳しい物であった。
法と同時に文字、紙幣を統一。封建制(諸侯による統治)を廃止して郡県制(国、皇帝による統治)を中華全土に施行した。ここテストに出るぞー
始皇帝はその他にもいろいろやった。阿房宮を作ったり、万里の長城の建設に本格的に着手する。エトセトラ エトセトラ
だが、これを書かない訳にはいかない。
焚書坑儒
焚書坑儒とは
焚書とは分かるだろう。文字通り書物を焚く、燃やす事である。
何の書物か?其れは法治主義ではない物
思想上の邪魔になる為徹底的に燃やしたのである。
隋の牛弘はこの事件を書物の災厄の筆頭と評した(残りの四つは国家の混乱による物に対してこちらは政策的な物)
お次は坑儒
何を埋めるのか?
それは人である
儒者と呼ばれる学者達を多くを埋めたのである。
これには或る事件があって、始皇帝は不老不死になりたかった。
薬を学者に命じて作らせた。
「不老不死の薬を作れ?..無理です」
「は? お前ら殺すぞ」
学者達は皆蒼然として逃げ出したが、捕らえられた。
学者達はその後
見せしめとして生きたまま埋められたのである
長男である扶蘇は諫めたが全く聞き入られなかった。
お父さんは誰か
後、もう一つ始皇帝には気になる話がある。
それはお父さんが分からないのである。
嬴政の父は荘襄王とされるが、諸説有り
呂不韋が実の父親なのでは?
という説がある。これが中々有力なのだ。

是は当時から噂されていたらしく、史記「呂不韋列伝」にも記述がある。
然し、真相は不明。
最後
始皇帝という存在は余りにも大きかった。
始皇帝の死後、宦官である趙高が権力を握り国内の有力な人間を粛清(蒙恬、長男扶蘇など)
民衆達の怒りは爆発💥💣
陳勝・呉広が挙兵。各地で秦に対する反乱が勃発した。
それに対して秦の章邯は反乱の鎮圧に努めるが楚の将軍“項羽”に敗れ、降伏。
時を同じく劉邦が咸陽に入り
そして3代目である子嬰が降伏。
_______秦は滅亡した
始皇帝の死後 僅か四年であった。
項羽と劉邦 新たな時代
そして、項羽と劉邦という二人の英雄により、中華は新たな時代を迎える…
(その時李信はどうするのか…気になりますね)
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