【古典要約】一緒に読みましょう!徒然草【吉田兼好】

枕草子、方丈記と並ぶ日本三代随筆の一つ

鎌倉時代末期に吉田兼好が書いた「徒然草」

為になるお話が沢山あるんですよ!

今回はその一部を紹介します!

つれづれなるままに

つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。

序段

訳 「為すこともない一日。今日は日頃から心に思った事を書いてみた。

書いていく内に自分が正気かどうか、変な気持ちになってくる」

自分の心の内を赤裸々に綴った書き出し!いいですね〜。

つれづれなるとは寂しい、つまらないではなく、自分自身との対話。自分の思った事を綴っていくのです。

人の営みとは、どこに向かうのか。_永遠など何処にもない

蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る人、高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕に寝ねて、朝に起く。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし。身を養ひて、何事をか待つ。期する処、たゞ、老と死とにあり。その来る事速かにして、念々の間に止まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。惑へる者は、これを恐れず。名利に溺れて、先途の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、また、これを悲しぶ。常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。

第七十四段

「人がアリンコの様に集まり、或る人は西に、或る人は東に走って行く。みてくれの良い者もいれば悪いのもいる、老人も若者も色んな人間が入り混じっている。

これらの人は皆帰る家があり、夜になれば寝て、朝になれば起きる。 一体彼らの営みは何のためであろうか、 少しでも長生きしたいとか、もっと金儲けをしたいとか そういう思いで齷齪と働いている。

彼らは我が身大事に欲を貪り、将来を期待をしている。

だが、待ち受けるものはただ“老い”と”死“だ。

其れに気づかず、ただ名誉と利益に溺れて、老いと死を顧みない。

ただ、かといって、悲観してばかりいるのも愚か者だ。

万物は移り変わって行く物だよ。」

徒然草に於いて中心を成す思想

「無常観」

永遠など存在せず、常に移り変わって行く。

同じく古典である、方丈記は“諦念”の様な感情も目立ちますが(それも魅力ではあるが)

徒然草は“物事は移り変わって行く物だから今が大事”という無常を前向きに捉えている節があります!

ためになるお話 木登り名人

高名かうみやうの木登りといひし男をのこ、人を掟おきてて、高たかき木に登せて、梢こずゑを切らせしに、いと危あやふく見えしほどは言ふ事もなくて、降おるゝ時に、軒長のきたけばかりに成りて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍はべりしを、「かばかりになりては、飛び降おるとも降りなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕つかまつる事に候ふ」と言ふ。 あやしき下臈げらふなれども、聖人の戒いましめにかなへり。鞠も、難き所を蹴け出いだして後、安やすく思へば必ず落つと侍るやらん。

第百九段

「木登りの名人と誉高い男が、弟子に木をのぼらせている時、危険だと思う場所では何も云わず、弟子が下りだして来た時、家の軒位の高さで「注意して下りろ」と声を掛けた。

そこで私(兼行)は疑問に思い 

『何故低い所で注意を促すのだ?』と尋ねた。

名人は答えた。 

『高い所では、当人自身が気を付けて作業をする為、敢えて言う必要はありません。安全だと思う所でこそ、気が緩み、つい事故が起きてしまうのです』

_ 

兼行は思った。

身分の低い男だが、理にかなっている。 蹴鞠でも難しい所では無く、存外蹴り易いと思った所で鞠を落とす物だ」

た、たしかに…!

これは色んなことに言えますね。

事故や怪我というのは気が緩んだ時にこそ注意をすべし。

古典というのは、こういう為になるお話が沢山あるのです。

真似でも良い

 人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人、などかなからん。己れすなほならねど、人の賢を見て羨うらやむは、尋常よのつねなり。至いたりて愚おろかなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。「大きなる利を得んがために、少しきの利りを受けず、偽り飾りて名を立てんとす」と謗る。己が心に違たがへるによりてこの嘲りをなすにて知りぬ、この人は、下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮にも賢を学ぶべからず。 狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥きを学ぶは驥の類たぐひ、舜を学ぶは舜の徒ともがらなり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。

第八十五段

「人とは大概生まれながらにして、悪い心を持っていると思う。それ故に人を欺く人が多い。

勿論、中には素直な人や賢人と言える人もいる。稀だが。

そんな人物を見て、どう思うのか。

自分もそうなりたいと思うのか。

将又

「あいつは嘘をついている、本当は利益が欲しいだけだ」と悪態を吐くのか。そう思ったら人間お仕舞いだ。

悪い人間を真似れば、そいつも悪くなる。

良い人間を真似れば、自ずとそいつもいつかは良くなる。

昔「孟子」って言う偉い人がこう言ってた。

「堯(伝説上の名君)の様になりたければ、堯の様に行動すればいい」

下手でもいい。

真似さえ出来ればそいつは賢人の仲間入りが出来る。」

________

「憧れている人の真似でいい」

これは私達の生きていく上の道標になります。

尚且つ兼行は“なれ”というキツい言葉ではなく、“真似ること“という優しい言葉で包んでくれます。

流行を持て囃すな。内輪が全てと思うな。

今様の事どものめづらしきを、言ひひろめ、もてなすこそ、又うけられぬ。世にことふりたるまで知らぬ人は、心にくし。いまさらの人などのある時、ここもとに言ひつけたることぐさ、ものの名など、心得たるどち、片端言ひかはし、目見合はせ、笑ひなどして、心知らぬ人に心得ず思はする事、世なれず、よからぬ人の、必ずある事なり。

第七十八段

「流行ばかりを取り上げて、持て囃す。

ああ、何と愚かなんだろう。寧ろ、流行が終わる迄知らないというのが乙ではないだろうか。

その場に不慣れな人がいる時に、専門用語だけ使って、囃し立てる蓮中にもロクなものはいない。」

流行だけを取り上げる人間や、身内だけの話、身内にしか通用しない言葉ばかり使う人達。

なんと愚かで陳腐な存在なのでしょう!

本当に賢い人間ならば、誰にでも分かるような話をすべし❗️

此れは圧倒的に共感できます。

こういう内輪繋がりでしか話せない人間はどの時代にも満遍なく居る。

昔から人の本質って変わらないだね。

本当の美しさ

花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨に向ひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情けふかし。吹きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれけるに、はやく散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるにおとれる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひは、さる事なれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言うめる。万(よろづ)の事も、始め終りこそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをばいふものかは。逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとりあかし、遠き雲居を思ひやり、浅茅が宿に昔をしのぶこそ、色好むとは言はめ。望月のくまなきを千里の外までながめたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたる村雲がくれのほど、 またなくあはれなり。椎柴(しいしば)・白樫(しらかし)などの濡れぬるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。

すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしう、をかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまも等閑なり。片田舎の人こそ、色こく万はもて興ずれ。花の本には、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み連歌して、はては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さし浸して、雪にはおり立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見ることもなし。さやうの人の祭見しさま、いとめづらかなりき、「見ごと、いとおそし。そのほどは桟敷不要なり」とて、奥なる屋にて酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれば、「渡り候ふ」といふ時に、各胆つぶるるやうに争ひ走りのぼりて、落ちぬべきまで簾張り出でて、押し合ひつつ、一事も見もらさじとまぼりて、「とあり、かかり」と、ものごとに言ひて、渡り過ぎぬれば、「又渡らんまで」と言ひておりぬ。ただ、ものをのみ見んとするなりべし。都の人のゆゆしげなるは、睡(ねぶ)りて、いとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後にさぶらふは、様あしくも及びかからず、わりなく見んとする人もなし。



何となく葵懸け渡してなまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひ寄すれば、牛飼・下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行き交ふ、見るもつれづれならず。暮るるほどには、立て並べつる車ども、所なく並みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、程なく稀に成りて、車どものらうがはしさも済みぬれば、簾・畳も取り払ひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世の例も思ひ知られて、あはれなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。 

かの桟敷の前をここら行き交ふ人の、見知れるがあまたあるにて、知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。この人皆失せなん後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。大きなる器に水を入れて、細き穴を明けたらんに、滴ること少しといふとも、怠る間なく洩りゆかば、やがて尽きぬべし。都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人・二人のみならんや。烏部野・船岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。されば、棺を鬻く(ひさく)者、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思い懸けぬは死期なり。今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり。暫しも世をのどかには思ひなんや。継子立といふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、数へ当てて一つを取りぬれば、その外は遁れぬと見れど、またまた数ふれば、彼是間抜き行くほどに、いづれも遁れざるに似たり。兵の、軍に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。世を背ける草の庵には、閑かに水石を翫びて(もてあそびて)、これを余所に聞くと思へるは、いとはかなし。閑かなる山の奥、無常の敵競ひ来らざらんや。その、死に臨める事、軍の陣に進めるに同じ。

徒然草

第百三十七段

徒然草の中でもとりわけ全文が長い!

それもそのはず。これ程美の本質を見抜いた文章は他にないでしょう。非常に美しい文章です

訳(かなり駆け足で)

「花は満開。月は満月。

確かに美しいが、それだけが本当の美しさではない。

雲に隠れている月に恋するのも、また良し。まだか、まだかと花が咲くのを待つのもまた良い。

_「花が散った」、「月が傾いてしまった」と、嘆くのも分かる。だが、何事にも終わりと始まりがあるから美しいのだ。

目で見えない物を愛おしみ、心眼を持って本質を見るというのが本当の“美”ではないだろうか。

(中略)

美しさが分からない人間は桜を見ても、

その下でただ騒ぎ立て、酒は飲む、歌は歌うで情緒の欠片もない。

挙げ句の果てには桜の木を折ってしまう。

本当に品がある人間というのは静かに見る物だ。

(中略)

桜が散り、日が暮れた。

帰る人々、撤収する畳や簾を見ると、まるでこの世の盛衰の様を見ている様だ。

すれ違った人混みの中には見知った顔もあった…。

いつかは全員死ぬ。

勿論自分自身もだ。

死はいつやってくるかは分からない。

どこにいようとも、死という敵が襲いかかってくる点では、まるで私達は武士と変わらない」

________

うーん。なんて素晴らしい美意識なのでしょう。

見える物だけが美しさではない

徒然草の中でも特に好きな章段です。

それに対しての“生々しい喧騒”の表現が対比となっていて感慨深いです。

これは恐らく兼行自身が目にした桜のお祭りの有様なのでしょう。

現代でも…

そして徒然草の根本を成す

“無常観”

同じく古典「方丈記」とは違い 

“死”に対しての一種の覚悟、

其れ故の、“美学”を見出した兼行の徒然草は現代でも心に響くものがあります。

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