【日本史都市伝説】崇徳上皇の怨霊伝説【怨念がおんねん】

「菅原道真」「平将門」と共に日本三大怨霊として知られる、

崇徳上皇

今回は崇徳上皇の怨霊について紹介します。

崇徳上皇とは

時は平安時代末期。
貴族同士の確執が強くなっていたこの時代。

崇徳上皇(1119年〜1164年)は鳥羽天皇の息子として生まれます。

後白河上皇との権力争い(保元の乱)に敗れ、讃岐に島流しにされます。

荒狂った生活

讃岐での生活は非常に厳しいものでした。

崇徳上皇は讃岐で唯一の救いであった仏教を熱心に学び、反省と供養を兼ねて写経を都の寺に送ろうとしたところ、

後白河天皇はそれを「呪いがかけられている!」と猛烈に拒否!写経を送り返したのです‼︎

プチーーーンッ‼︎
それを見た崇徳上皇は止め処なく湧き上がる怒りと恨みを抑えきれなかった(´༎ຶོρ༎ຶོ`)

舌を噛みちぎり、血でこう認めた、

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん

それから崇徳上皇は爪や髪を伸ばし続け呪詛を唱え、失意のうちにこの世を去ってしまう。

崇徳上皇を入れた棺には蓋を閉めているのに血が溢れ出たという。

恐ろしい😱😱

だが、本当に恐ろしいのはこれからでした…

崇徳上皇の怨霊

崇徳上皇の死後

平安京では不可解な出来事が多く起こる。

都の大火や鹿ヶ谷の陰謀、そして後白河天皇に近い人間が相次いで命を落としたのです。

これを不吉に思った後白河天皇は怨霊を鎮めようと保元の宣命を取り消して、崇徳上皇の側近で、戦死した藤原頼長には正一位太政大臣が追贈されました。

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崇徳上皇の怨霊としてのイメージはその後の文学作品にも取り上げられ「椿説弓張月」や「雨月物語」でも描かれています。

現在、白峯神宮等では崇徳上皇が祀られています。

悲運の帝 崇徳上皇。

ご冥福を祈ります🙏

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