【書評】志賀直哉/城の崎にて【生と死は両極ではない】

生きている事と死んでしまっている事と、それは両極では無かった。それほどに差はないような気がした

谷崎潤一郎も絶賛した名作‼︎
志賀直哉の私小説「城の崎にて」のご紹介!

電車に跳飛ばされた!

「山手線の電車に跳飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた」

何という衝撃的な出だしwよく無事だったな😅

主人公は屋敷に泊まることに。ここで出会うのが「ぶーん」と飛び立つ蜂。退屈になるとよくこの蜂を眺めていたという。

ある朝の事_____


ハチ

自分は一匹(疋)の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触覚はだらしなく顔へたれさがっていた。他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその脇を這いまわるが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立ち働いている蜂にはいかにも生きているものという感じを与えた。その脇に一匹、朝も昼も夕も、見るたびに一つの所に全く動かずにうつ向きに転がっているのを見ると、それがまたいかにも死んだものという感じを与えるのだそれは三日ほどそのままになっていた。それは見ていて、いかにも静かな感じを与えた。淋しかった。他の蜂が皆巣へ入ってしまった日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。

しかし、それはいかにも静かだった。

この“淋しい”という言葉は作中によく出てきて、志賀の心情が窺える。

ネズミ

次に主人公は川に溺れているネズミを見つける。

だが、ただ溺れている訳ではない。

「首に串が刺さり、石を投げつけらている」

子供や見物人が大声で笑いながらネズミを痛ぶっている。

ネズミは自分が「死ぬ」なんて事は毛頭思ってない。全力で「生きようと」逃げ回っている様子が頭に浮かぶ。が、そうさせてはくれない。彼らは自分が「死ぬ」なんて思ってはないのだから。

「自分は淋しい嫌な気持ちになった」

イモリ

主人公は次にイモリを見つける、何の気無しにイモリを驚かせようと小石を投げてみる。…そんなつもりはなかったのに見事命中。
…嫌な気がした。その気が全くないのに殺してしまった。

自分は偶然に死ななかった、蠑螈(イモリ)は偶然に死んだ

生と死

志賀は三匹の生き物の死を見て深く考えました。

「生きている事と死んでしまっている事と、それは両極では無かった。」

”あの時、本当は自分が死んでいるかもしれなかった“

生と死は繋がっているのです。”死“を思えば思うほど自分が生きている“実感”を感じる事が出来る。

また、意味もなく小動物の命を奪う人間の“生“…
必死に生きようとする小動物の“死”

それらが見事に対比されていて、感慨深い。
非常に考えさせられるお話ですので是非一読を!

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