西暦222年
蜀漢を建国した英傑、劉備は怒り狂っていた。
義弟関羽を失い、その怒りの矛先は呉に向かった。大軍を擁し呉を討つと号令を出した。
だが、_____負けた
その男の怒りは大炎と共に燃え尽きてしまった。
今回は
劉備を倒した男
「陸遜」について綴っていきます。
呉の四姓「陸氏」
陸遜(元の名は陸義)は呉の有力豪族の生まれで陸康(従祖父)と共に暮らしていたが、小覇王「孫策」の攻撃を受けて、避難を余儀なくされる。
孫策の亡き後は弟孫権に陸遜は仕えた!
- 呂蒙の副将、関羽攻略戦
反乱の鎮圧などで功績をあげ、政治に聡い陸遜を孫権は気にいる。
219年に関羽が樊城を攻めると呂蒙は関羽の隙を突き攻撃した。この呂蒙の右腕として支えたのが陸遜だった。
(間も無く呂蒙は亡くなり、陸遜が跡を次ぐ)
劉備を倒した男
- 劉備の怒り
苦楽を共にした、義弟「関羽」が死んだ
劉備はその報を聴いた時に、直ぐには理解出来なかった。
「我が弟が、死ぬ訳がない」
信じたくなかった。劉備は嗚咽を漏らし、悲鳴をあげた。
そして止め処なく沸き上がる怒りを抑え切れず、痛切な程に強く思った。弟を裏切った呉を討たねば為らぬと…。
復讐に燃えるその様、嘗て仁義に生きた男の姿はもう何処にも無かった。
夷陵の戦い
劉備は4万(+異民族)を率い荊州を攻め制圧を進めていく。大都督に任命された陸遜は劉備と戦わず、ただ只管軍を引かせた。
その姿を見た呉の将兵たちは溜息をついた_____
「これで、呉も終わりか」
勢いを増す蜀軍。陸遜など所詮は臆病者だと鷹を括っていた。
そして蜀軍は陣を構えた。まるで、林の様に連なった陣を敷いたのである。
(しめたっ)陸遜は握り拳を作り、兵隊に号令した。
「今宵、火計を仕掛けるぞ、嘗て周瑜殿が曹操を打ち破った赤壁以上の大火が蜀軍を襲うであろう!」
ビューン❗️ビューン❗️雨の様に飛んだ火矢が蜀軍を襲う!(陸遜が“放火魔”と言われる所以)
大火は劉備の怒りを陣営と共に灰塵と化してしまった。
陸遜は呉を救ったのである。
蜀を討ち倒し、魏を石亭で打ち破った。その能力は嘗ての功臣「周瑜」を彷彿とさせた。
呉の丞相
- 呉の大黒柱
孫権は陸遜の事を重宝し、自分と同様の待遇を与えた。
「伯言(陸遜)よ、其方は孫呉に取って掛け替えの無い存在だ」
それ程までに陸遜という“呉”を支える柱は太く強固であった。前丞相(顧雍)の亡き後は丞相に任命され後を継いだ(総理大臣みたいな物)
二宮の変
だが、幾ら尽力しても大勢は変わらない。依然として中原を支配している魏の国力には敵わなかった。
そして…呉の世代交代の時が来た。
最も大事な時に、孫権が突如として老害と化したのである❗️(これが呉が弱体化した一番の要因)
孫権は後継者である長男孫登が病死してしまった為、順当にいけば次の後継者は三男孫和に継がせる筈が、何を思ったのか四男孫覇にも権力を持たせてしまう。
兄弟間でも仲が悪く、孫家は二つに分かれて十年にも及ぶ後継者争いをする事になる。
これが二宮の変である。
(息子が可愛かったのかな?)
「孫和様は孫登様の遺言でもあります、何故ご決断なされないのですか?このままでは呉は内部分裂してしまいます!」
陸遜は必死に孫権を諫めるも全く聞き入れなかった。
「孫呉は…このままでは…」
陸遜は溜息を吐き、虚な目で虚空を見つめた。そして、陸遜は命を掛けて孫呉の礎を気付き上げた英傑達を思い浮かべた。眼に涙を浮かべ、国を憂い…死んでしまった。享年65
- 陸遜亡き呉
陸遜亡き後、孫権はこの問題を解決させる為に出した決断が
「どっちも両成敗!まだ8歳の七男孫亮に継がせる」という物であった
はっきり云って…
意味がわからない。
個人的に
智謀に満ち、正に「稀代の名将」と言わざるを得ない。
三国志の中で、主君を除いて単独で伝を作られているのは諸葛亮と陸遜だけであり、政治においても能力を発揮した。
息子陸抗も名将で斜陽の国を支え続けた…( ; ; )
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