時は鎌倉幕府末期、時の天皇、後醍醐天皇は鎌倉幕府討伐を掲げた!鎌倉幕府やっちゃいますか?やっちゃいましょうよ!💢
だが、しかーし!!天皇とはいえ「幕府」が持つ軍事力を前には無力…しかし倒幕側には有能な人物が多く付き従った!
代表的なのは 後に室町幕府を築く「足利尊氏」
後に鎌倉を陥落させる「新田義貞」
そして「楠木正成」であった!
役者は揃った。イザカマクラ!!
出会い
後醍醐天皇は幕府を倒そうとしたが戦果は乏しく、笠置山に身を移していたところであった
「何処かにいい武士はいないものかノォ…」
ウトウト… 知らぬ間に寝てしまった💤😪
そして夢を見た!
「後醍醐よ!!お告げだ!木!!南!!!忠臣が現れるであろう!」
ハッ∑(゚Д゚) 今の夢は?!
「木と南…? ……!!! 楠!」
後醍醐天皇は僧に尋ねた、この辺りに“楠”という名を持つのはおらぬか?
「近辺にはおりませぬが、河内(大阪)の金剛山に楠木正成という武芸に秀でているものがおりまする。」
そいつだ!!
早速後醍醐天皇は正成を呼び寄せた。
「お主が楠木正成か… どうかわしに力を貸してくれぬか…」
「勿論で御座います。して、天子。私から戦略が一つございます」
「ホウ…聞かせてみよ!」
「“武力”では幕府に劣りますが、計略を磨き、武と計を用いれば必ずや勝機は開きましょう!この正成一人になろうとも私は天子をお助け申す!」頼もしい言葉であった
「正成よ、感謝する。今から幕府軍が此方に向かってくるであろう。支城、赤坂城を守ってはくれぬか!」
「御意!この正成、命を賭して幕府と戦いましょうぞ!」グッ‼️
…良い眼をしておる。この男ならば。
赤坂城 防衛戦
正成は赤坂城の立て篭もった。兵は少なく、五百人だった。
それに対し幕府は兵を派遣し城を包囲その数、30万
(太平記より。ただ恐らく誇張表現。実際は1万以上ほどらしい。それでも多いが!)
こんな小城捻り潰してくれるわ!
「幕府よ、甘いな、城攻めは力で押すものではないわ!」
正成の指揮は的確であり、落石や塀を切り落とし
幕府軍を多いに苦戦させた。そして攻めあぐねた幕府軍は作戦を変えた。
「まずい…止むを得まい。兵糧攻めじゃ!」
「受けて立つところじゃああああ」
だが❗️ここで正成の元に一報が届いた
笠置城が陥落し、後醍醐天皇が捕虜になった
「なんと…天子が… 。このまま籠城を続けていても無駄じゃ。偽装自害を図る!」
妙計であった。自ら火を放ち焼死を装った。
幕府は正成が死んだと疑わなかった。
残念だったな、トリックだよ
赤坂城陥落から翌年、正成が突然現れ、赤坂城を奇襲した!
楠木正成?!死んだはずじゃ…?!
残念だったな…トリックだよ
突然の襲来に幕府軍は多いに困惑!戦う間も無く降伏し、正成は赤坂城を奪還した!
そのままの勢いで和泉、河内を攻略!天王寺で陣を張った!幕府は宇都宮公綱を派遣した 正成は一旦引き、城を渡し。周りに篝火を焚かせ包囲しているように見せかけて、兵を退いたところで入れ替わる形で天王寺に入った。寄せては返す波のようにーーー🌊
その頃関東では英傑達が幕府討伐に兵を挙げた
「新田義貞」そして「足利高氏」であった
千早城の戦い
正成は赤坂城の詰めの城として千早城を築いた
いよいよ幕府も正成の存在が怖くなり大軍を派遣!正成軍はおよそ千人程!
対する幕府軍、その数 100万から200万とも(太平記より 恐らく誇(ry 実際は十分の一程と推測 それでも多いが!)もしリアルにこの数だったら戦力差は2000倍((((;゚Д゚))))))) 🤣
圧倒的大軍を持って千早城を包囲
good-by正成と言わざるを得ない状況
しかし正成は幕府を驚嘆させる奇策を繰り出す!
- 奇策
幕府軍は例の如く力攻め!塀によじ登る幕府軍に対して雨あられのように大石や弓矢をお見舞い!
水路を断とうとした者に対しても奇襲をお見舞い!
幕府は兵糧攻めに出るもまた正成が一策。
藁人形を囮にして山の麓に立て偽装し襲いかかってきた所を石や弓矢の餌食にした!
なんじゃあああこりゃああああああ‼️もうどっちが攻めてるのか分からねえ!!
幕府軍は厭戦ムードが漂い始めた
「これ…攻め落とすの無理じゃね?」
- そうこうしてるうちに…
足利高氏が六波羅探題を落とし、千早城包囲処ではなくなった幕府軍は撤退!
そして新田義貞が鎌倉へ攻め入り、鎌倉幕府を滅ぼした!
尊氏との対立
後醍醐天皇が隠岐から脱出し、京都へ凱旋!
正成が出迎えた!
「天子!よくご無事で!」
「正成、其方の働きは聞いておる!大儀であった!」
「高氏、義貞もよくやってくれた!位階を授ける!」
足利高氏は言った
「有り難く。今より名を尊氏と改めさせていただきます。」
正成は尊氏を見て思った(偉丈夫だ、だがどこか陰のある男よ)…🤔
その後尊氏は北条の残党討伐を名目に朝廷に許可を得ず軍を起こし。勢力をグングン伸ばす。
後醍醐天皇は不信に思い。義貞に討伐を命じた
だが義貞は尊氏に敗れ京まで追いやられる❗️アカーーーーーーン!!
それに対し正成は義貞と連携し尊氏を京から追い出した!!
尊氏は九州へ逃げる💨
そして尊氏は九州を平定、大軍をもってまた京へと攻め上った!
七回生まれ変わっても…
尊氏がまた軍を起こし京へと攻め上る…
その数は50万とも(太平記 実際はもっと少ないかと…💦) いずれにしても後醍醐天皇方よりも多い…
その大軍に義貞の兵士は逃げるもの多し。数はどんどん減っていった。
迎え撃つは正成と義貞。
戦力差から言って勝てぬ戦であった( ; ; )
合戦前夜🌙
正成と義貞は酒を酌み交わした
「義貞殿 何を恐れることがあろうか、我らには帝の御加護がありまする!明日の戦必ず勝つ!」
義貞の顔は俯いていた。
「…正成殿…私に付いて来てくれる兵は日に日に減り、最早私に大将など務まりますでしょうか…」
「義貞殿…心配なされるな、そなたは鎌倉を落とした男ではないか!そして後の世に朝敵、尊氏を滅ぼした英傑と云われる男でありましょうぞ」
「正成殿…」
夜は明けた。
足利尊氏は大軍を持って湊川へと押し寄せた
正成、義貞軍は奮戦するも多勢に無勢。
そして正成は義貞と分断され、包囲されてしまった。
決して正成は諦めず6時間にも及ぶ激闘が続いた。
だが来てしまった。限界が。
(もはやここまで…)
共に戦って来た弟に尋ねた
「弟、正季よお前生まれ変わったら何になりたい?」
「兄者 そりゃ決まってるだろ! 人間さ!俺は七回生まれ変わって、七回とも天皇に尽くすさ!」
それを聞いた正成は満足したように大いに笑った。
「正季、俺もだよ」
個人的に
日本史史上でも屈指の名将であることは間違い無いでしょう!
後醍醐天皇に最期まで尽くした「忠臣」
しかし室町時代には“勝利者”足利尊氏に刃向かった反逆人という扱いを受けた時もあったでしょう。尊氏もそうだけど見方によって評価が変わる武将でもあると思う。
だが尊氏自身も亡骸を正成の遺族へ返還している事から、武士として尊敬していたことでしょう。
あと…余談ですが…楠か楠木か どっち表記なんだい笑?!