平家を滅ぼし、鎌倉幕府創立に貢献した男
「源義経」
“判官贔屓”という言葉で後世惜しまれた名将の生涯を綴ります。
牛若丸
義経は源義朝(頼朝のとーちゃん)の九男。
頼朝と義経は異母兄弟。義経の母ちゃんは頗る美人だったらしい。
その生い立ちは二人とも”苦“であった。
頼朝、義経兄弟は父が敗死後平氏に追われる幼少期を過ごした。
- 鞍馬寺
義経という男は面白い。
後世の伝説か、将又事実か…。天狗に兵法を習ったと言われたり、五条大橋で弁慶を従わせたり。エトセトラ、エトセトラ。そして…モンゴル…これは後述しよう。
幼名牛若丸は鞍馬寺に預けられ、僧になるように教えられた。然し血は争えない。才においては天賦であった。自ら元服し、寺を抜け、奥州藤原氏を頼った。
平家を滅ぼした男
兄頼朝は挙兵した。それに応じて、義経も馳せ参じた。共に辛酸を舐め尽くした幼少期を過ごした。
そして果たす時が来た。父の無念を。
「兄上…久しゅう御座います。」
「弟よ…」
涙の対面であった😭😭固く握手を握り交わした。
此処から、義経の華麗ともいえる快進撃が続く
まず都で乱暴を働いていた、同族「義仲」を討つ。
そして対平氏が始まる。
三草山で夜襲を仕掛け、一ノ谷戦いでは崖を逆落とし、急襲。平氏は大いに混乱し大勝をする。
”名将“には二通りタイプがあると思う。
正を以つか詭を以つか。勿論併せ持つタイプもいる。それが出来るのは本当に傑物だが。
「絶対勝てるように勝つ」「相手を騙す」
前者が諸葛亮、徐晃、衛青、ベリサリウス
後者が田単、韓信、白起、エパメイノンダスなど該当するのだろうか。多分。
義経は間違いなく”後者“のタイプであった。
枠に囚われない戦い。良くも悪くも型破り。そんな戦いをした義経
- 最後の一撃は、せとない
かつて栄華を誇った「平家」_____
盛者必衰の理。
最早見る影も無い。最後の拠点にまで追い込まれ、最終決戦へと赴く…。

場所は壇ノ浦
数では劣る平氏。だが水軍においては平家の方が質が高く、前半戦は平氏が優勢だった。
それを悟った義経は兵に命じた。
「漕ぎ手を射よ」
それは“当時”タブーとされていたことであった。だが勝つためにはやむを得ない。
平氏は潮の流れも反転し、天命を背かれた。
後はただ自ら滅びていくだけであった。
兄より優れた弟
平家を滅ぼした立役者源義経。戦の巧さに関して、舌を巻くしか無い。
しかし、朝廷から官位を勝手に貰い、三種の神器も無くしてしまう。頼朝は義経のことを疑った。
そしてトドメの一撃の言わんばかりに義経と不仲であった梶原景時の讒言。
頼朝は痺れを切らした

と言わんばかりに。
義経討伐の命を下した。
義経は一転、謀反人となり逃亡を余儀なくされる。
最期と伝説
- 奥州藤原氏を頼って…
義経は逃げた、愛人別れを告げ、ただひたすらに逃げた。そして頼った先は嘗て世話になった奥州藤原氏であった。
当主「秀衡」は義経を匿い。徹底抗戦の構えであった。
奥州藤原氏の勢力は強大で、尚且つ義経が戦術面において指揮を取るとなれば、鎌倉側も容易には手が出せなかったであろう。
だが秀衡は病に倒れ、息子泰衡が継いだ。これが災難であった。遺言を無視し、義経を裏切ったのである。
- 兵どもが夢の後
泰衡は義経討伐に500騎を送り出した。義経側は僅か十数騎であった。寧ろ名誉というべきであろうか、それほど恐るべき相手であったのだろうか。
義経の主従は文字通り命を賭して戦った。だが、無謀であった。
義経は全てを悟ったように、一戦も交えずただ仏堂に篭り、妻子と共にこの世を去った。享年31
- 判官贔屓と蒼き狼
義経の悲劇的な最期は後世同情を引き、伝説が作られた。その中でも極め付けが
チンギスハンは源義経であった (笑)と付けたくもなるw

これに関しての可能性はほぼゼロに等しい、と断言できるだろう。
もし、もし、(大事なことなのでry
本当であれば孫(フビライ)が、お爺ちゃんの仇討ちと言わんばかりに、鎌倉幕府を攻めたのなら、それはそれで趣深い。
個人的に
日本史でも特に人気の高い人物であろう「義経」
戦術面に関しては本当に天賦の才を持った男としか言いようがない。
ただ時代を俯瞰し、見極める力は足りなかったと言わざるを得ない。頼朝との対立も短絡的であったと言えなくも無い。DAGA鎌倉幕府は義経無しでは間違いなく、礎を気づけなかっただろう。
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