貴方は宗教にどんなイメージがありますか?
「怪しい」?「盲信的」?
確かにそういう“宗教”もあります。一部の信者は、人の価値観を捻じ曲げ、押し付ける。それはもはや狂信でしょう。
それはイエス自身が最も嫌ったのではないでしょうか。そしてそんな人に対しても…
世界で最も信者が多いキリスト教、教えとイエスの生涯を簡単に綴ります。
隣人愛
イエスキリストの教えで最も有名なのが「隣人愛」
愛には理由が必要か?
愛すべき対象、”美しさ“ “強さ” “可愛らしさ”それらが無ければ人は愛されないのか?
NO…イエスはイエスとは言わなかった。…そんな俺にも…。
イエスは愛とは無償のものだと教えた。
戒律よりも、傷ついている人を助ける。
イエスが声をかけていった人達は云うなれば病人や売春婦などユダヤの価値観で言えば“汚れた”人でした。
そんな彼らに対してイエスは言います
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
「マタイ福音書」五章3―12節
見捨てられたイエス…
罪人達を癒し、ユダヤ教の在り方を否定するイエスは怨みを買い、磔刑を言い渡されます。
それに対して弟子たちは、イエスを…
結果的に見捨てます。ユダは、イエスを銀30枚で売りますが、他の弟子達も、間違いなく、裏切ったのです。
自分への保身、恐怖それらが彼等の心を駆り立てました。イエスを裏切った罪悪感、自分の無力さ、そして、最後のイエスの姿を見て…。彼等は…。
イエスの処刑、余りにも苦しい刑罰、磔刑。
最後の言葉は余りにも…。無力であった。
「エロイ、エロイ、ラマサバクタニ(我が主よ、私を見捨てるのですか)」
その後のキリスト教
イエスの最後は泥に塗れ、英雄的でもなく、ただ、死んでいってしまった。
だがその姿は弟子達、及び、その場にいた人の心に訴えた。
愛とは何かを
弟子達は目が覚めたかの様に、布教活動を始める。
時には追害され、時には誤解されました。(特に有名なのがネロ帝による弾圧)
殉教(宗教のために死ぬこと)も厭わぬ、何故なら
あの人が受けた、苦しみに比べたら…。
涙ながらに、声を枯らして。布教を続けて行った。
嘲笑う声も多かったが、心を動かされた者も、又多かった。
そして、信者を増やし、ローマの国教に認められ、
現在では世界で最も信者が多い宗教になります。
宗教とは悪なのか善なのか…
これは一概に“善悪”で測れるものではないのが事実です。
ですが十字軍や魔女裁判などはキリスト教が引き起こし、現在でも紛争の原因などになっている、そういう一面は否めません。
しかし宗教というものが無ければ人はもっと非道い、世界になっていただろうとは思います。
自分自身を見守り、支えてくれる。
どの宗教でも、どの哲学でも。そういう考えでもいいのかなーーーと思います。