1560年、今、時代が動いた、大大名「今川義元」は討たれた。
泥に塗れた、その首は歪んでいた。
今川義元を倒した男は、風雲児「織田信長」
その後、信長は時代を駆け抜け、全てを改革した。
後の世は今川義元をこういうであろう
「信長の踏み台」と。
だが、実像は決してそう言い切れない、云うなれば、英傑であった。
東海道一の弓取り「今川義元」
生涯をざっくり、綴ります!
名門の三男
今川家は鎌倉時代から続く、名家であり
「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで云われていました。
義元は今川家の当主、氏親の三男として生まれます。
三男としての立場上、跡目を継ぐのは難しく、仏門に出されます。義元はお坊さんとして生涯を終える…はずだった!。
だが、それを良しとしない男がいた。
それが義元の教育係を任された「太原雪斎」
義元と雪斎、二人三脚。
雪斎は義元を一人前の大名にすべく、一緒に京都に行って、古典や兵法、礼儀作法を叩き込んだ!!
その甲斐あって、義元は教養溢れる、立派な男に成長👍
家督相続問題
天命とは、不思議哉。成る可くして、人は成るのであろうか。
義元のお兄ちゃんが急死👻(二人とも同じ日に)
(毒死説もあるけど…どうでしょう)
いよいよ…チャンスが回ってきた。
だが、福島家という家臣が反対、異母兄、玄広恵探(今川良真とも)を擁立。
ここに家督相続争いが始まる。
花倉の乱だ。
戦いは激戦であったが、雪斎、家臣岡部親綱の活躍もあり、恵探は自害まで追い詰められる。
例え、兄弟でも、家の為なら、討たねばならぬ。義元は戦国の非情さを身に噛みしめた。
こうして、義元は今川家11代当主になった。
東海道一の弓取り
義元が、取り掛かったのが、法の整備と…外政であった。
甲斐国守護、武田信虎と同盟を結んだ(甲駿同盟)。だがこれが北条氏(相模)の恨みを買い(武田と北条は抗争していた為)攻め込まれてしまう。
この時、三国の関係はかなりピリピリしていた。
バチーーーーン!!!義元は妙策を思いついた。
三国で同盟結べば良くね?!
それは三国にとって、旨味がある、悪くない話であった。
だが、実現するかどうか…外交官の腕次第であった。
「主君、ワシに任せよ」
雪斎であった。
「…雪斎、そなたに託すぞ。」
義元はつい言いそうになった嘗て、師と崇めた、その時の名前を。
会盟の場所は善徳寺であった。
雪斎は三国同盟の利益を有り有りと説き伏せ、誰の目にも、合意しない理由がない。そう思える程の論説であった。
武田は信濃に、北条は北に、今川は西に。それぞれの“目的を果たす為に”
その場にいた誰もが、それから先の事は話さなかった…。その先は…。
三河を取り、謙信と信玄の和睦もした。
信玄、氏康も義元相手には迂闊に、手を出すことはできない。
その領土、名声は正しく
「天下に最も近い男であった」
桶狭間、新たな時代
義元は尾張を手中に収めるべく、大軍を擁した。
蟻んコを潰すが如く、そのような、戦いである“はず”であった…
尾張の大名「織田信長」は、うつけ(馬鹿)と云われる男であった。
今川軍は押し寄せる波のように、鈍重とも言えるほどの重圧さを持って、飲み込んでいった。
溜息は漏れた。
「織田も終わりか…」
神頼みするしかなかった。
織田の若殿は舞を踊り、駆け出した。
時代は動く、
時代は…
義元を選ばなかった。
個人的に
日本史史上でも屈指の人気を誇る「織田信長」に負けた、今川義元は「貴族かぶれ」「踏み台」
…等決して評価は高くなかった。しかし調べれば分かる、教養に長け、決して凡愚な男ではなかった。
戦国時代を代表する、英傑
そう云いたい。