個人的歴史上人物 天下に最も近かった男「今川義元」

  • 2020年4月17日
  • 2020年7月10日
  • 歴史

1560年、今、時代が動いた、大大名「今川義元」は討たれた。

泥に塗れた、その首は歪んでいた。

今川義元を倒した男は、風雲児「織田信長」

その後、信長は時代を駆け抜け、全てを改革した。

後の世は今川義元をこういうであろう

「信長の踏み台」と。

だが、実像は決してそう言い切れない、云うなれば、英傑であった。

東海道一の弓取り「今川義元

生涯をざっくり、綴ります!

名門の三男

今川家は鎌倉時代から続く、名家であり

「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで云われていました。

義元は今川家の当主、氏親の三男として生まれます。

三男としての立場上、跡目を継ぐのは難しく、仏門に出されます。義元はお坊さんとして生涯を終える…はずだった!。

だが、それを良しとしない男がいた。

それが義元の教育係を任された「太原雪斎

義元と雪斎、二人三脚。

雪斎は義元を一人前の大名にすべく、一緒に京都に行って、古典や兵法、礼儀作法を叩き込んだ!!

その甲斐あって、義元は教養溢れる、立派な男に成長👍

家督相続問題

天命とは、不思議哉。成る可くして、人は成るのであろうか。

義元のお兄ちゃんが急死👻(二人とも同じ日に)
(毒死説もあるけど…どうでしょう)

いよいよ…チャンスが回ってきた。

だが、福島家という家臣が反対、異母兄、玄広恵探(今川良真とも)を擁立。

ここに家督相続争いが始まる。

花倉の乱だ。

戦いは激戦であったが、雪斎、家臣岡部親綱の活躍もあり、恵探は自害まで追い詰められる。

例え、兄弟でも、家の為なら、討たねばならぬ。義元は戦国の非情さを身に噛みしめた。

こうして、義元は今川家11代当主になった。

東海道一の弓取り

義元が、取り掛かったのが、法の整備と…外政であった。

甲斐国守護、武田信虎と同盟を結んだ(甲駿同盟)。だがこれが北条氏(相模)の恨みを買い(武田と北条は抗争していた為)攻め込まれてしまう。

この時、三国の関係はかなりピリピリしていた。

バチーーーーン!!!義元は妙策を思いついた。

三国で同盟結べば良くね?!

それは三国にとって、旨味がある、悪くない話であった。

だが、実現するかどうか…外交官の腕次第であった。

「主君、ワシに任せよ」

雪斎であった。

「…雪斎、そなたに託すぞ。」

義元はつい言いそうになった嘗て、師と崇めた、その時の名前を。

会盟の場所は善徳寺であった。

雪斎は三国同盟の利益を有り有りと説き伏せ、誰の目にも、合意しない理由がない。そう思える程の論説であった。

武田は信濃に、北条は北に、今川は西に。それぞれの“目的を果たす為に”

その場にいた誰もが、それから先の事は話さなかった…。その先は…

三河を取り、謙信と信玄の和睦もした。

信玄、氏康も義元相手には迂闊に、手を出すことはできない。

その領土、名声は正しく

天下に最も近い男であった

桶狭間、新たな時代

義元は尾張を手中に収めるべく、大軍を擁した。

蟻んコを潰すが如く、そのような、戦いである“はず”であった…

尾張の大名「織田信長」は、うつけ(馬鹿)と云われる男であった。

今川軍は押し寄せる波のように、鈍重とも言えるほどの重圧さを持って、飲み込んでいった。

溜息は漏れた。

「織田も終わりか…」

神頼みするしかなかった。

織田の若殿は舞を踊り、駆け出した。

時代は動く、

時代は…

義元を選ばなかった。

個人的に

日本史史上でも屈指の人気を誇る「織田信長」に負けた、今川義元は「貴族かぶれ」「踏み台」

…等決して評価は高くなかった。しかし調べれば分かる、教養に長け、決して凡愚な男ではなかった。

戦国時代を代表する、英傑

そう云いたい。

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